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2012年3月15日~17日、グリーンコープのワーカーズメンバーが被災地を訪問しました

<東日本大震災から1年後の被災地報告>

  1年経っても尚、地震直後の大津波の爪跡が生々しく残り、一方で、瓦礫の撤去が進んで見渡す限りの荒野のような被災地。そこに人々の営みがあったとは想像すらできず、被害の甚大さを改めて感じさせるような被災地それぞれの2012年3月。 

  2012年3月15日から17日に撮影した被災地の写真と共に、1年後の被災地を報告します。 

 ※以下、説明文の番号は地図上の番号とリンクしています。

◆瓦礫が撤去され一面の荒野~仙台空港周辺・名取市~亘理(わたり)町

   

 

1.(左)名取市の住宅街だったところ。見渡す限りの茶色い荒野が広がる。ここに街があったとは想像できない。道路と田畑と宅地の区別がつかないくらい全てが失われている。この地域は内陸まで平地が続き、高い所がなく逃げる場所がない。ここに7m以上の津波が襲ってきた。

 


2.名取市 閖上(ゆりあげ)地区にあるお寺。お墓も何もかも流されてしまったまま。周囲も瓦礫が片付けられたとはいえ、1年後とは思えないほど、復興・復旧は進んでいない。

3.名取市 閖上中学校の校庭跡。地盤沈下しているため、水が引かない。流された船が取り残されていた。




 

4.亘理町 荒浜海岸。ここでたくさんの人が亡くなった。まだ瓦礫が片付けられていない所もある。
防風林の役割をはたしていた、海岸から幅50~100mある松林も全て茶色く枯れ、海から陸の方向に折れていた。

 

◆あの日あの時のまま~名取市 閖上中学校/石巻市 大川小学校

   

 

1.(左)津波の被害にあった閖上中学校。時計は地震のあった午後2時46分で止まっていた。 ここでは14人の生徒が犠牲になっている。玄関前には生徒の名前を刻んだ石碑が立てられていた。

 

 
1.校舎の1階まで津波で浸かった形跡があった。生徒の教科書やバッグ、学校用具の一部が泥まみれのまま残されていた。
 
1.震災の当日は卒業式だったようで飾りなどが残ったままだった。 近くに高い建物はなく人々はこの中学校に避難して来た。3階が避難所になったが、立っているしかないくらいに避難して来た人でいっぱいになった。簡易トイレや避難者の人数などの貼り紙などが未だ生々しく残っていた。




 

2.全校生徒の7割以上の子どもたちと教職員が亡くなった大川小学校。学校は横を流れる北上川より低い位置にある。学校の裏側には切り立った山があるが、他には高い場所はない。校門の献花台にたくさんの花が手向けられていた。

 

◆生々しい爪痕~南三陸町・女川(おながわ)浜・雄勝(おがつ)町・石巻港

 
1.南三陸町 志津川周辺。防災庁舎近くの鉄骨だけになった建物。津波の破壊力のすごさを思い知らされる。街は壊滅状態で、すれちがう人や車は工事関係者ばかりだった。
 

 

 
2.津波でほとんどが流された女川の中心部から見上げた女川町立病院(中央右上の建物)。 こんな高台にあるのに、病院の1階まで津波で水没。この病院を目指して多くの人が逃げて来たが、最終的には病院の裏山の神社まで逃げることになったという。
 
3.石巻市雄勝(おがつ)町 雄勝庁舎。3階まで津波が押し寄せ、窓ガラスは破れ中はがらんどうになっていた。




 

4.石巻市石巻港周辺の住宅街。ここは住宅撤去が遅れている。
家も中はがらんどうになってしまって無人。

 

◆明日へ向かう~亘理町・山元町・石巻市・牡鹿半島

   

 

1.(左)亘理町の宮城県特産のいちご「もういっこ」の生産者だった斉藤さんご夫妻。
津波で自宅の1階を流されながらも、2階に留まり近隣の人たちと支え合って在宅避難していた。
塩害に弱いいちごの栽培は断念し、野菜づくりをはじめるため自力でビニールハウスの枠を組み立てた。

 

 
2.亘理郡山元町で津波の被害にあいながらも、奇跡的に一人の犠牲者も出さなかったデイサービス「えん」の斉藤さんご夫妻。震災前は施設は山元町の沿岸部にあったが、全て津波に流された。利用者の要望があり内陸の方にデイサービスセンターを建設した。 張りつめたこの一年、めまぐるしい日々だったと振り返りながら、時折体調を崩すこともあると言われていた。グリーンコープの 福祉ワーカーズが2011年7月より継続的に支援活動を続けていることで、繋がりが深まっていることを感じた。
 
3.石巻市の高橋徳治商店。グリーンコープの職員や共生地域創造財団の泥出し・瓦礫撤去支援を受け、10月に工場の1ラインを再開した。周囲は瓦礫と無人の家がほとんど。

 

 
4.石巻市 折浜・蛤(はまぐり)浜この日はおだやかな海。漁業再開のための船も浮かんでいた。夏に種付けをしたカキは 順調に育っているとのこと。グリーンコープの取引先を通じて入手したロープなどを使って、養殖イカダづくりの作業が本格的に進んでいる。
 
5.女川浜周辺。
支援された建材を使って店を再開したコンテナ商店街。ボランティアの人たちが活発に動き、店の建設を続けていた。一歩一歩復興に向かっていくにはさまざまな支援が不可欠だ。

 

◆これまでの支援・これからの支援~女川町・仙台市青葉区・仙台市若林区

   

 

1.(左)仙台市青葉区 共生地域創造財団の連携団体の一つ、「ワンファミリー仙台」で話を聞く。
普段は仙台市のホームレスの支援を行っているが、震災当時は事務所前で帰宅難民に炊き出しを行った。避難所、福祉施設、病院など400カ所に物資の配送支援をした。

 

 
2.仙台市若林区
農地は一見きれいになっているように見えるが何度掘り起こしてもガレキが出てくる。菜の花を植えても強風に芽が飛ばされ 育たなかった。しかし様々な作物を育てる試みをして、可能性を探っている。
 
3.震災前まで漁師(夫)の仕事を手伝っていた女性たちが、仮設の集会場で布草履(ぞうり)づくりをすることで繋がっている。 Tシャツなどの綿を裂いて編んでいく。力がいる作業だが女性たちは元気に作業していた。




 

亘理町の女性たちが集まって着物の布地を再利用して作った「FUGURO(ふぐろ)」。
てしごとプロジェクトWATALIS(ワタリス)が「ふぐろ」づくりで復興への足がかりとなるよう支援している。

 

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  被災地に暮らす人たちの笑顔や言葉からは、前を向いて、懸命に進もうとされているようすが伝わってきました。被災地の人たちが、街づくりや、仕事づくりなどに積極的に取り組み、自らのふるさとを再生させるために立ち上がっておられるようすに感動を覚えました。しかもそれが20~70代の幅広い世代であることにも、一筋の光を見ました。 

  震災という困難からの出会いではありましたが、繋がっている被災地の方々とこれからもずっと共に歩んでいきたいという思いを強くしました。同時に、厳しい現状を目の当たりにし、これからの困難を見聞きして、さらに被災地を応援していく取り組みを継続していくことや、私たちの生き方も問い直しを迫られているように感じました。

2012年4月18日

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